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第25回 河川情報センター講演会 講演記録
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第25回 河川情報センター講演会 講演記録

 東日本大震災に遭遇して
   〜大規模災害時に求められる対応とは〜

○開催日時 平成25年7月4日(木) 16:00〜18:00
○開催場所 河川情報センター 4F  A・B・C会議室
○講  師 佐藤 健一 氏
 前・気仙沼市危機管理監兼危機管理課長(技術士)
○講演内容
 昨年まで気仙沼市の防災担当をしていました佐藤と申します。本日は、こういう機会を設けていただきまして、感謝申し上げます。特に、河川情報センター様には、震災前から予防的な訓練という形で協力いただいておりました。また、震災直後からの実態調査、これからの防災のあるべき姿など、多くの支援をいただいております。この場をおかりしまして、改めて感謝を述べさせていだたきたいと思います。本当にありがとうございます。

 

 今日は、東日本大震災と自治体対応ということで、気仙沼では震災前どういう取り組みをしていたのか。それから、その取り組みに対してどういう課題が残ったかというお話をさせていただきたいと思います。また、復旧・復興の部分で今現在、どういう状況か若干触れさせていただき、次の震災に備えて気仙沼市で考えていることを、述べさせていただきたいと思います。

 気仙沼市は宮城県の北東端に位置しており、周りは岩手県です。どちらかというと、文化的にも岩手県に入って生活圏を形成されている場所で、宮城県と岩手県を合わせ、宮手県という言い方もします。

 これは、Googleの航空(衛星)写真ですけれども、気仙沼市には大島という島があり、人口が約3,000名の東北最大の人の住む島になります。リアス式の地形の非常に入り組んだ127.1kmの海岸線を持っております。
 震災前(2011年2月末)の人口は7万4,247人で、現在、台帳上は6万9,000人位に減っておりますけれども、しかしながら実際の人数は台帳上よりも非常に少ない。気仙沼に籍を置きながら、全国各地にお世話になっているという状況にあります。

 気仙沼の産業としては、水産業と観光ということなんですけれども、特定三漁港という、全国13港のうちの一漁港に指定されており、遠洋漁業から沿岸漁業まで、内水面もあり、水産業を中心とした、水産加工業も含め、非常に活気を呈している街でありました。

 三陸沿岸はリアス式海岸ということで、仙台の北にある金華山から青森県の八戸までが三陸海岸と言われております。この海岸は、海岸線がのこぎり状にでこぼこしまして、景観的には非常にすばらしいのですが、反面、地形が入り組んでいるがゆえに、津波により非常に甚大な被害を多く受けてきたということがあります。三陸沿岸の市町村において、自然災害の中で一番頭に浮かびますのが津波であります。
 特に近代の津波被害によって三陸沿岸は津波対策というのが一番の課題であり、災害対策=津波ということで、これまで取り組まれてきました。

 これは市民を対象とした色々なワークショップでもお話ししていますが、津波というのは来るたびに顔が違います。人間と同じように全く違うんです。ですから「今度来る津波は今までの経験に当てはまらないかもしれない」という話をしておりました。
 明治三陸地震津波(1896年)では、「引き波」初動で津波がやってきて、地震の震度は気仙沼地域で震度1〜2と非常に小さい揺れでした。今、三陸地方では毎日のように震度1〜2という地震がありますが、そんな地震によって襲来した津波は、気仙沼市の杉ノ下という湾の入り口になりますが、ここでは約11mを記録しました。この時、気仙沼市域で18m以上の津波が来ている地域もあります。この明治三陸地震津波では、岩手県の今の大船渡市綾里で、遡上高38.2mという記録があります。
 その37年後に発生した昭和三陸地震津波では、「押し波」初動の津波が発生しました。地震自体は今で言うアウターライズであり、明治三陸地震のひずみの影響で起きた日本海溝から東側のプレート内地震と言われており、地震は非常に強震動でした。揺れが非常に大きく、現在の震度階級で言いますと、震度6とか7ではなかったかな?という感じはするんですけれど、震度7に近いような非常に大きい揺れに襲われ、その後に津波がやってきた…津波は押し波で始まったということです。

 人的被害は、明治三陸地震津波の頃は人口が多くなかったと思うんですが、気仙沼で1,906名という方々が被災しました。その37年後の昭和三陸地震津波では、死者が81名と非常に少なくなっているんです。この理由については「明治三陸地震津波の教訓が伝わっていた」と言われております。しかし逆に、間違った言い伝えが昭和三陸地震津波の際に被害を大きくしたという地域もあります。
 明治三陸地震津波の後、「地震と津波はどうやら関係がありそうだ」と言われていました。その当時、津波というのはハッキリわからないんですね。なので「地震の揺れと津波の揺れというのは合わせると10のエネルギーです。地震の揺れが小さいときは大きい津波がやってくる、しかしながら地震の揺れが大きいと津波は小さくなる」という、間違った伝わり方をしたところがあり、そのために逆に被害を大きくしたという地域があるそうです。

 それから、遠地津波です。もちろん地震の揺れはありませんが、前世期最大の地震のエネルギーを持って起きたチリ地震。それに伴って、津波が太平洋を渡って23時間かけて日本にやってきて、特に三陸沿岸に大きい被害を与えています。
 というようなことで、まずはこのような津波対策を中心に三陸沿岸の地域では努めていたというか、啓発も含めて、いろいろ策が練られてきたということがあります。

 これは明治三陸地震津波の後の『風俗画報』の絵ですけれども、左側の2枚が気仙沼地域の絵になっていて、非常に悲惨な絵です。昭和三陸地震津波の頃になると色々な記録が残っています。明治も残っていますが、文献で残っている記録の中で、遺体の状況についての記載があります。遺体の絵を見ると、死因は溺死ではない。溺死という形になってはいますが、実は遺体の損傷が激しく、例えば手がない、腕がない、足がない、首がないとかいった、単なる溺死ではない遺体が描かれています。ということは、津波の恐ろしさは単なる水ではないんだということになります。
 唐桑半島に「折石」というのがあります。明治三陸地震津波の前には「ロウソク岩」と言われ、高さは18mあったんですが、明治三陸地震津波によって先端が2m折られて、現在は16mの高さになっています。今でも海中に折られた分の2mの岩がありますけれども、ということは、最低18m以上の津波が、この場所には来たんだろうと言われています。

 これは昭和三陸津波の映像ですけれど、左側は津波の波圧によって破壊されています。右側は同じ地区なんですけれども、船舶がこのように打ち上げられて家屋を破壊している。この当時から、漂流物の被害というのは実際に起きていましたし、記録にも残っていたんですが、日本の津波対策というのは、ほとんどが「防潮堤等で防御します」「浸水深」というようなものを対象に対策がとられていました。

 これは昭和35年のチリ地震津波の様子ですけれども、これは出来たばかりの、当時の気仙沼市の魚市場です。魚市場の周りに船がいっぱいありますが、これはほとんどみんな漂流している状況です。それから、何か浮かんでいるのは、養殖施設が全部漂流しているという状況ですね。それから、これは気仙沼湾の奥にあります鹿折川というところを津波が遡上しまして、ちょっと見にくいんですが、船が揚げられたり、養殖施設が揚げられたりということで、家屋に被害を与えています。
 それから、これも同じくチリ地震津波の湾の一番奥の市街地になります。これは岸壁になりますけれども、平常時、海面の高さはこの辺なんです。それが、今は引いています。ということは、今ですと気象庁から大津波警報が出され、市町村は避難指示を出している。津波はまだ続いていて、ここにいてはならないという状況なんですが、もう畳を干しています。こちらも同じですが、上がった津波の中を歩いている。これは魚市場の背後の臨港線の場所ですけれど、ここには、今だと非常に高級なマグロが並んでいます。
 当時、津波、特に遠地津波とかそういうものは、市民の間には知られていなかったということがあります。昭和35年で、ちょっと前だという感じがするんですけれども・・・

 これもチリ地震津波の様子で、2006年のちょっと古い航空写真ですけれど、震災直前と地形的にはほとんど変わっていません。実は、河川情報センターさんのお世話で震災前にこの場所で大規模な津波の訓練をやりまして、この地区の人たちが一時避難ビルに避難して…という訓練をやりました。この訓練のおかげで「ここに避難しよう」という意識は高まり、この訓練は非常に効果があったものと考えています。
 ここは、まだ埋め立て途中の港湾区域ですが、津波が来ているときの航空写真です。ここに導流堤が写っていますが、非常に速い流れです。白いのは渦を巻いている様子です。このときの映像が残っており、後からの解析では、毎秒7m〜8m、9mというような流れの速さでした。タンカーなど、かなり大きい船舶でも毎秒2mを超えると操船が非常に難しくなるというのが実態で、今回はもっと速い流れということになります。この早い流れは、海底地形まで変化を与えました。

 これは、明治三陸地震津波以降、三陸沿岸でとられてきた対策になります。
 1つは防潮林、それから高所移転というのがあります。防潮林については南の方、例えば四国の方で防潮林が波浪に対して非常に効果があるという話があって、今回の被災地においても防潮林を植林したらいいんじゃないかという話があり、それによって当時、国が主導で地域に対してとられたのが、防潮林の植林です。
 陸前高田市では非常に多くの松林が流されたものの1本だけ残って、「奇跡の一本松」という話がありますが、あれも明治の津波によって整備がなされました。気仙沼市域においても、この辺の海水浴場とかの背後の防潮林が、津波対策という意味合いも含みながら整備されてきました。
 それから、明治三陸地震津波以降、高所移転を行ってきた地区もありますし、気仙沼市域においても、集団的に高台移転がなされたという場所があります。

 地域防災計画について、専門家である皆さんには釈迦に説法でありますが、地域防災計画は各自治体が整備しなければならないということでやっています。私たちが地域防災計画を策定する中で、震災前は県の認可を受けながら作る。そうすると、どちらかというと、その県、その県の金太郎あめ的な防災計画になってしまうという面がありました。
 さらに、地域防災計画の策定において、国と指定公共機関が策定する防災業務計画との連携、「こういう形になっているので、こうしましょう」という連携が、実は実際にはとられていなかったという課題がありました。
 もう1つ、地域防災計画というのはどちらかというと、市町村とか県のバイブル的な計画になりますけれども、実効的な事業継続計画、それから活動マニュアルというようなものは絶対3点セットで必要なんですが、震災前はなかなかBCPの策定までには至っていなかったという面があります。それから、気仙沼市ではBCPを作っていたんですが、実はそのPDCAサイクルは行われていなかった。これによって色々な課題があったわけですけれど、課題抽出ができなかったということがあります。これは私どもの大きい反省であり、こういうようなものをきちっと行いながら職員間の周知などに努める。それからもう1つは、課題を抽出しながら非常に効率的・効果的な地域防災計画だったり、BCPを作り直していくということが、やっぱり必要だったんだろうと反省しているところです。
 それから、防災基本計画が震災の年の12月に修正されましたけれども、ここで大きいことが何点かあります。ちょっと前にお話ししましたが、1つは、その地域独自の地域防災計画を作れる。認可ではなくて届けで済むから、市町村独自の部分・考え方を入れられる地域防災計画に変わったというのが、一番大きい点です。

 さらに今後、防災計画の考え方の中で、最大クラスの地震・津波の想定を実施していく。これがその下のAのレベル1、レベル2という形につながっていくわけで、これも大きい修正点です。
 また、「津波に強いまちづくり」という部分がありますけれども、皆さんのご協力、特に委員会を設置していただいて進めていただいている「津波に強いまちづくり」の中でも、先月でしょうか、「避難困難地域を確定しなさい、確定した中でいろいろ検討しなさい」ということがあったんですが、本センターにより、避難のための「津波避難計画検討委員会」というのを作っていただいて、その中で避難のあるべき姿を新たな形で見直しをしていただいています。こういうような取り組みは、どんな災害においても必要になるものと考えております。

 それから、これは中央防災会議による防災基本計画の1番大きい点ですが、実は震災前には、津波対策という項目は震災対策編の中のほんの一部、2〜3ページしか表記がないという問題がありました。震災後は、これが1つの編として津波災害対策編となるわけですけれども、これに合わせ、市町村が作る地域防災計画も同様に、津波災害対策編という1つの編として独立しました。
 しかし、東日本大震災の被災地等においては、津波対策編というのは独立した編でもいいと思うんですが、今後起き得る南海トラフ等においては、地震と津波はセットになります。なので、二編、三編というような地震と津波をセットに、場合によっては他の災害との連動という形も含めて考えなければならない。ですから、分けてはありますけれども、実質的には分けて考えるというようなものではなくて、一連の流れの中でこれは対策を講じていくべきというふうに考えております。

 それから、これは個人的にですけれども、震災前は私たち、想定というものを持って、リスクマネジメントという観点で地域防災計画を策定しておりました。これは、防災関係機関というか、市役所の庁舎にいる各課の職員も含めてですけれども、起こり得るリスクに対して100点満点をとれるというような計画になっておりました。しかし実際に3.11が起きて私が強く感じますのは、クライシスという点が抜けていた。今まさに五連動というようなクライシスに相当するものが出てきておりますけれども――レベル2(L2)という分ですね。地域防災計画をこれで策定していく必要が実はあったんだろうと思いますし、今後は、こういう2本立てになるかどうかわかりませんが、そういう考え方を持つ必要があると思います。その中で、主役は関係機関ではなくて住民だというようなところを改めて考える防災計画でなければならないだろうと思います。
 その場合に、クライシスを入れて実際に作っていくと、100点満点がとれない可能性があります。じゃあ、その場合はどうするんだというと、やっぱり住民の力を入れる、それから関係機関の支援をいただく、それからもう1つ。

 地域防災計画にNPO・NGOの記載というのはほとんどございませんが、私たちは震災を経験しまして、NPO・NGOというのは非常に力を持っているということが初めてわかりました。非常に勉強不足だったと反省しておりますけれども、非常に力を持って、初動時からの支援で入っていただきました。そういうようないろんな関係機関が入った形で100点をとれない部分を補うという考え方の防災計画というのは、やっぱり必要なんだと思いますし、もし作ってみて「100点は取れないよね」といった場合は、取れないということを住民に対してきちっと説明する、周知をするような防災計画のあり方を考えていくべきじゃないだろうかな、というふうに思っているところであります。

 これは地域防災計画の細い点ですが、市町村の方とお話するときにこういうことをお話しさせてもらっております。先ほど言いましたクライシスという点を入れると、実際、初動段階でマンパワーが不足してまいります。その場合に、実際に気仙沼で起きていた事例としましては、初動段階で非常に人が必要になってくる部署があります。
 避難所だったり食料の確保だったりという部分に人が必要になる。しかし、その対応を人事的に動かすというものは地域防災計画に明記されていなかったんですね。そのため、例えば危機管理が指示しようとすると、「どこにも書いてないだろう、これはうちの仕事ではない」みたいなことがあるんですね。それはどこかが、初動段階でやるべきことになっているけれども、ただ優先順位とすれば違うだろう、ここに集中しなければならないという場合は、それに合わせた形の人事的な部分もやはり明記しながら、判断したところの指示に従うということを書いておかないと非常に動きづらいという面があったものですから、これはちょっと書き込んでおくだけで解決する部分なので、こういう細いところも考えておく必要があるなと思っております。

 それから、防災担当部局と他の部局との温度差というのは、震災後、大雨・洪水警報が非常に出やすい状況になりました。地盤が沈降したために、ちょっとした雨で大雨・洪水警報、洪水警報が出ます。その場合に感じましたのは、他の部局から防災部局に対して、私たちは何をすればいいんだろうという話。待っていればいいですか?とか、電話をくださいねとか、というのがあるんですが、実は各部署においてやるべきことは地域防災計画ではっきり決まっているんです。
 防災部局というのは、14〜15年前くらいから危機管理という名前で色々出始めたと思います、全国的に。専門的な部分はやっぱり必要だというのはあるんですが、しかしながら、ほかの部局とすれば、災害というのはそこの防災担当部局がやるんだろうというような思いが、ちょっと強いようです。そのために温度差が出てきているというのは、全国の自治体の大きい課題だと言われております。常日頃から、この温度差をなくさなければならない課題を抱えていると思います。

 それから、先ほどちょっとお話しした事業計画、最近は、BCPと全く同じですけれども、行政に関してはOCPという呼び方をするそうです。それから下の括弧で、もう1つ事業継続計画に相当する分で、個人のBCPに相当するもの。それから、町内会とかそういうところで町内会の存続というんでしょうか、継続していくために計画を立てるという、勝手に私がつけたんですけど、プライベートCPとか、コミニュティのCCPというような形のものを、地域として作っていく必要があるんじゃないかなと思っております。その後押し、お手伝いをするのが行政であり、「個人個人がどうすればいいんだ」というのをもう一度、改めて考えてもらう、そういうようなものも作っていったらどうだろうなと考えています。

 それから、行政の事前準備・予防対策として気仙沼市で行われてきましたが、記憶をつなぐということも必要ですし、それから、災害の掘り起こしとか、過去の災害はどういうものがあったのか。気仙沼であれば、その地域にあった過去の災害について、それはまた起きる可能性があるのかというようなことを、今起きたらということも含め、掘り起こそうということをしておりました。
 それから、災害の正しいイメージづくり、行政と住民とのイメージの共有ということから、次に来る災害のイメージというのはこういうもので、そのときにどうすれば命を守れるんだとか、誰が守ってくれるんだとか、いや誰も守ってくれないよねとか、そういうような共有すること、これが一番中心でありますけど、災害の正しいイメージ作りをやってきたということです。

 それから、安全な場所の確保という、これは行政がやるべきことで、津波のための一時避難ビルだったり、避難道だったりというような整備とかですね。
 それから、関係機関との連携ということで、自衛隊とか、いろんな県・国の施設管理者とか、ほかの自治体とか、そういうような連携が必要だということであります。
 NPO・NGOとは、連携はやられておりませんでした。被災後ということになります。
 それから、発災直前、初動時、発災後の対策として、情報の収集・伝達ということ、それから、応急対応、復旧、復興へと移るわけです。発災直前とは何かということを説明しますと、例えば津波の場合ですと、地震というものがあって、その後、情報を収集して判断する、判断したものを住民に伝えるというようなことを指しており、発災直前の避難のための極めて重要な対応となります。

 実際にやられていた取り組みとしては、ハードの施設整備が進められておりましたけれども、実はこれはチリ地震津波の高さに対しての対応であったということですね。想定されておりましたのは宮城県沖連動ということで、その高さも想定されておったんですが、実際、実施に移されていた整備といいますのは、過去の津波の高さに対するものでありました。これは、海岸法の改正の中で、想定し得るものとか、想定に基づくシミュレーションとか、過去最大のものというふうな記載になっておりましたが、実際行われていた整備というのは、予算の関係もありますからですけれども、気仙沼においてはチリ地震津波の高さに対するハード施設の整備ということでありました。
 何でまだハード施設の整備が終わってなかったかということなんですけれども、実は、海岸線の利用者であります。例えば、市場や船がありまして、その関係の人たちから、陸上の途中に、背後の土地に対して胸壁とか護岸とかが建ってしまうと不便であるという反対があり、なかなか整備に至らなかった。それから、そういう防潮堤を建てますと、海が見えなくなる。「私は海が見えたほうがいい」というような話もあって、整備が進まなかったという点がありました。それ以外の取り組みに、いろんな防災情報システムとか、住民へのワークショップなどを行っていました。

 先ほどの記憶をつなぐということで、先人が残しました石碑というものがありました。これは、明治以降、気仙沼に約28基あったんですけれども、津波の悲惨さを伝えるというような石碑、それから、啓発的な、地震が起きたらすぐ高台に避難というような石碑があったんですが、実は震災時においてこの存在をよく知っていたという方々はまだまだ少なかった。まだまだじゃないですね。全く少なかった。おそらく、10%とか、15%とか、非常に少ない人、限られた人しか、よくわかっていなかったというのがあります。こういうような過去の悲惨さをつなぐ、震災遺構的な部分というのは、やはり今後必要なんだろうなというふうに思います。
 それから、過去の災害の掘り起こしということで、これは、震災後に出てきた、浸食されたところから現れてきた過去の津波の痕跡。海岸線のところが浸食されて現れてきたという部分ですが、その前に、過去の掘り起こしとして、津波の痕跡というようなものも調べようとしておりましたし、調べられてもおりました。

 それから、防災マップのワークショップということをやってきましたが、これにはあるきっかけがあったわけですが、2003年5月26日に三陸南地震というのがありまして、そのとき気仙沼は震度5強の揺れで、市内では崖地が崩れたり、宅地が崩れたりという被害がありました。
 その後、アンケートをとりました。
 その地震によって津波を頭に思い浮かべたか、想起したかという想定のアンケートでしたが、90%近くの人が津波を思い浮かべたような結果でした。それから、「避難しましたか?」という問いに対して、「避難しましたと」いう人は約20%です。しかしながら、津波のために避難しましたというのは1.7%だったんですね。
 それまでやってきた防災対策としの啓発部分は、色々な講演会をやったり専門家の先生を呼んだり、ということでやってきたんですが、これではダメだということで、じゃあ私たちから入っていこうという形に、この年の8月、アンケート結果が出た直後から、入ってまいりました。ワークショップをやって、こういうようなハザードマップをもとに、防災マップをつくりましょうということをやってきました。住民の方にお話ししたのは、例えば、洪水の危険だったり、土砂災害の危険だったり、津波の危険だったり、こういうハザードマップがあります。この地区はこういう危険を持っているんですけれども、皆さん、その危険に対して、自分の命を守らなくちゃならないですよね?という話で入るんですが、ハザードマップはどちらかというと上から目線で、役所がつくって、さあこうしろという意味合いが強いんですね。だから、みんなで考えて、ハザードマップをもとに、どうすればいい、どうすれば逃げられる、何が問題だというマップをつくっていきましょうということで始めました。

 それで、最初に入ったときは、実は、皆さんとマップづくりするけど、ほんとうはマップが目的じゃない、こういう話し合いをするのが目的なんです。みんなでいろいろ話が出ますよね。これが目的ですという話と、それから、その当時想定されていました宮城県沖地震の発生確率、あのときはたしか30年以内に80%ぐらいだったと思いますけれども、それとあわせて連動して南部海溝寄りというような地震が起き、津波が発生しますというような想定がなされていました。それを中心に入っていったわけですけれども、その場合に、市役所も役に立ちませんし、警察も消防も役に立ちません。皆さんの命を守るために必要な時間帯では、行政は何もできませんという話をしました。

 ですから、皆さんで守っていただきたい。それから、皆さん方でお互いに「住民が共助という形で命を守るというのが必要なんですよね」という話をさせてもらいました。
 で、今みたいな図上で描いて、それからタウンウオッチングをするということをやっていったんですが、実は、参加する方というのは、なかなか若い方は参加してこないという問題がありました。ここに1人、若いかなという人が写っているんですが、実は私の同級生で、決して若くはないんですが、彼が一番若いというような状況でした。こういうふうに歩いて、いろんな危険があるんですけど、若い人はいないんですね。こういう問題もありましたが、ワークショップもとにかく住民中心でいろいろ進めてきました。

 これは、また戻ってしまいましたけれども、過去の津波ということで、この辺で過去の津波を調べましょうということで、ちょうど津波痕跡A、B、Cというものが見つかりました。震災前ですけれども、実は過去の津波、1611年だと思いますが、慶長の津波というのがあり、これは仙台平野にもその痕跡があります。それから、今回の津波と同じ発生場所だと言われておりますけれども、貞観の津波。それを探しましょう。さらに、それ以外にはないんだろうかということでやられておりました。三陸沿岸、これは気仙沼なんですが、先ほどのA、B、Cですね。A、B、Cは3600年〜3800年の間、4000年〜5000年の間、5350年〜5450年の間にあったということがわかったんですけれども、慶長はこの時代、貞観はこの時代なんですが、このときの痕跡は出てこない。三陸沿岸で出てきましたのは、岩手県大槌町、大槌湾の海底のボーリングから出ておりました。三陸には、ひょっとするとこの津波は来てないかもしれない、よくわからないというのが、震災前の状況でありました。

 それからもう1つ、過去の津波を探すというのは、これは2009年に行ったものですけれども、気仙沼に大島があるんですが、大島が3つに分かれたという言い伝えがありました。そうしますと、2カ所で津波が越えているということなんですが、シミュレーションしながら、その中で、いつかわからないので、いつだというのを探そうとしました。
 明治三陸津波でシミュレーションを行うと、1カ所しか越えない。貞観のモデルも1カ所しか越えない。それから、貞観の津波を違うスケールで大きくしても、やっぱり越えないということがありました。そうしますと、結果としては、マグニチュードをもっと大きくすると越えるかもしれませんという結論だったんですね。それは貞観の津波なんですが、慶長の津波なのかもしれない。今まで言われていた地震の震源域から計算しますと、ほとんど出てこない。じゃあ3つに分かれたというのは、また違う津波がひょっとするとあったのかもしれない。それは今、探らなければならない状況にあるということです。

 それから、これは中央防災会議のほうで震災前に出されておりました宮城県沖――この赤いところですね。それから、連動して起きます南部海溝寄りというのがあって、ここで起きますと非常に大きい津波も発生するということで、先ほどのワークショップの中でのイメージづくりでお話しした部分なんですが、その場合の地震津波によって、皆さん、逃げられるか、逃げられないかというようなシミュレーションも行っておりました。
 例えばこのシミュレーションは、青いのは人なんですけれども、ここに市場がありまして、気仙沼の南地区と言われるところです。ここで地震直後に逃げ始めまして、津波が来ました。地震直後に歩いて逃げ始めれば、全ての人が一時避難ビル・避難高台には逃げられますというものです。ですから、急いで逃げましょう。もちろん、逃げ始める時間を変えていきますと、逃げられない人も出てくるわけですね。ですから、地震の後、早く逃げれば助かるけれども、遅くなると津波に巻き込まれてしまうというようなイメージをお話ししました。

 それからこれは、平成17年に国交省を中心にオールジャパンでやった、「沿岸部と背後地の連携による総合的な津波災害軽減方策検討調査」というものです。これは、スマトラ島のインド洋大津波を受けて、被害形態が今まで考えていた津波の浸水深というような、津波の波力というようなものだけではない、というのがいろいろ出てきましたから、日本においてももう一度考えてみましょうということでやられたものです。

 これは、係留している船があります。それから、自動車があります。オイルタンクがあります。海底送水管があります。漁船がありますとか、いろんなものがあるんですが、それから家屋があります。それの被害というようなものを複数検討しましょうということで、国交省を中心にしていろんな省庁が参加して行われたものであります。
 気仙沼湾と仙台港をモデルにして、いろんな検討がなされました。これは一部ですけれども、浸水深の分布。これはまさに一部違っておりますけれども、3.11とほぼ同じような形の浸水域になっております。それから、最大流速の分布というようなことで、この狭いところですね。先ほどのチリ地震でもそうですけれども、ここでこういうような流れがあった。流れの速さは8mを超えているわけですね。実際は9mとか非常に速い速さだったと思いますけれども、そういうようなもの。それから、例えば気仙沼湾はここにオイルタンクがありました。津波が防油堤を越えて、何らかの形でオイルタンクに被害を与える。そうした場合には、その津波によって油が拡散しますというシミュレーションも行っておりました。

 それから、避難ビル、一時避難ビルというようなことで、やはりもう一度確認しましょうというようなことで、このときはたしか500mというような範囲の中に全て一時避難ビルが網羅されているかというような――逃げ込める場所ですね。そういうものも含めて、いろいろ検討をし直したということがあります。一時避難ビルというのは、気仙沼市では昭和58年から設置を進めておりまして、震災時においては15カ所ほどありました。
 津波避難ビルとして最初からつくられたのは気仙沼市の魚市場です。これは漁港の人工地盤という扱いで、屋上を避難する場所として整備されました。震災当日、約1000名がこの魚市場に逃げ込んでおります。屋上駐車場ですから、車でも上がれるような状態での避難ビルという扱いであります。気仙沼市全体で、一時避難ビル、指定避難ビルに約3000名の方が難を逃れております。

 これも、当時やられたシミュレーションの湾の入り口の所ですが、こちらは太平洋になります。湾の入り口に波路上という第2種の漁港がありまして、これは杉ノ下という地区です。このシミュレーションは、明治三陸津波で行われておりますけれども、ここは海水浴場になっており、津波がここを越えてやってくる。漁港は内湾を向いているんですが、場所によっては三方からの津波に襲われるというようなシミュレーションになっておりました。これも住民の方に見ていただいて、皆さんの住んでいる地区というのはこういうようなおそれがあります。高台は一部残りますということで、避難高台だったり、避難ビルを指定しておりました。

 船とか車がどういうふうに流れるかというシミュレーションも、つくられておりました。これは漁港なんですけれども、漁港にあります船舶、それから自動車等が、津波が、今、引き始めるんですが、引き波初動で始まって、押してくる。それに伴って漂流物化する。イメージとして、この場所はこうなるんです。ですから、船舶にしてもきちっとした形で係留しましょう、係留の仕方によっては漂流しませんという話をしましたが、3.11の津波では全て流されてしまったという状況にあります。

 これは、沖出しする避難水域を決めるためのシミュレーションです。どの水域まで沖出しすればいいのかというようなものをシミュレートする。津波の高さというようなもの、それから、内湾が漂流物化する、埋まってしまう、その場合に船での支援ができるだろうか。それから、復興という場面でどのくらいのものをどういう形で除去しなければならないというようなものを想定するためのシミュレーションになっております。

 これを映像化、CG化したものが、テレビ朝日でつくりました「宇宙船地球号」でありますが、シミュレートされて結果として出されたものは衝撃的だということで、小さくしています。東北大で監修したものです。
 ある日ということで、本当は音も入るんですけれども、市場の背後にありますこれは、産業センターというところです。震度5強という揺れが想定されているんです。今、宮城県沖地震が起きまして、連動して南部海溝寄りというところが動き出します。断層の長さは60kmから80kmという長さです。プレート境界において逆断層で動きますから、津波は引き波から始まります。
 これは、湾の入り口の海水浴場、杉ノ下地区というところです。引き波初動は地震の14分後に始まり、その後5分から10分しますと押し波がやってくるわけですけれども、津波の高さは約8mという想定でした。しかしながら、実際にここを襲った津波は約17mです。これが今の杉ノ下というところですね。ここに高台が残るという形。それから、今の押し波が10分くらいしますと湾の奥にやってきます。

 ここにオイルタンクが23基あったわけですね。22基が津波の第一波で流されてしまいます。津波の高さは、この想定の中では3mから5mと、この場所は低くなります。何らかの形でオイルタンクに被害を与える。この場合はどうしたらいいかということで、船をぶつけたということになりますが、これによって油が拡散し、拡散した油に何らかの原因で火がつくという想定もなされておりました。
 津波の火災はほとんど消せません。といいますのは、水がある、瓦れきがあるということで、消防車両は全く入れないんですね。ですから、一番大切なのは、この報告の中で出されたものというのは、油の拡散をさせない、それから火が出ないようにする、これが一番大切だということでありました。この浸水の範囲は、ほとんど今回の3.11と同じような範囲。
 それから、これは湾の一番奥の魚町というところなんですが、津波の高さからしますと木造家屋は全流出しますが、全流出させるのはあんまりだろうということで、こういう形にしています。

 ここで、私たちの反省としまして、こういうようなシミュレーションが出される、いろんな報告が出される、想定がされる、それはきちっとした形でイメージできるものとして作っておくべきだった。色々なもの、今、漂流物もあったんですが、実は市場の中で漂流物化するものは1tタンクというカツオを入れるタンクなんですけれども、あれ以外に、自動車や船も漂流しますというものもあったんですが、個々人の船がはっきりしていましたし、所有もはっきりしている、家もはっきりしているので、それはあんまりだろうということでやりませんでした。けれども、きちっとした形で出された想定通りのものを作って皆さんに見てもらっていれば、もう少し多くの人が助かったんじゃないかなというように思っております。

 それから、先ほどワークショップで若い人が参加してないということがありまして、同じ年の11月くらいから、学校を中心に防災教育を進めました。私たちは、防災教育というものを子供たちだけではなくて大人も含めた意味合いで捉えていますが、特に、学校に入っていきましょうということで、ワークショップと並行してやりました。子供たちへのワークショップで、お父さん、お母さん、先生にも一緒に教えてしまうという形がいいよね。
 それから、それを中心にして訓練を時々やる。その時はみんな一緒になって全部ガラガラポンでやったほうがいいということで、先ほどのワークショップと並行してやってきた。その中で1つ、黄色で「協力」と書いてあるんですが、学校と自主防災組織とかは避難所としての位置づけということで、私たちは思っていました。ですから、拠点という形で避難所とかっていう形で書いているんですが、実は3.11のとき、そうではなくて、地域の人が子供を救ったという例があります。

 これは気仙沼のある中学校ですが、地震の直後に校長先生が全ての生徒を下校させます。家に帰します。しかしながら、その通学路は津波の想定浸水域内にあり、大津波警報が出ています。子供たちが帰っていくわけですね。そのときに地域の人が、「何で帰ってくるんだ。学校が一番安全なので、学校に戻れ」という話をするんですね。学校に戻します。それで、その学校の子供たちは全員助かっています。
 やっぱりあらゆる場面で、これは防災教育という点で表記しましたけれども、防犯でも交通安全でも、地域と一体になって学校が存在しているんだと、改めて感じさせられました。
 ということで今、宮城県においては県の教育委員会のほうで防災主任制度というものを導入しました。各小中学校、全ての学校に防災主任の先生がおります。それから、防災主幹という先生が各教育委員会の管内に1人か2人いるという形です。災害においてその防災主任の先生が学校に対して責任を持つということなんですが、じゃあどうすればいいかというようなものを今、訓練をしながら作っている最中ということであります。

 防災教育の重要性というのは、本当は前から出ていたわけですね。ちょうど30年前になりますけれども、こういうことがありました。1983年5月26日に日本海中部地震が発生し、その時に内陸部から遠足でこの地域を訪れていた小学生が多数犠牲になりました。そこから防災教育の必要性・重要性というのが言われ始めました。そのとき秋田県のほうでは、大きい地震のときは、砂浜が広いので海岸部に逃げましょうという話があったんですね。ですから、先生も子供たちを連れて逃げていました。地震がおさまったので、遠足に来ていた子供たちは、砂浜でお弁当を広げていました。そこを津波が襲いました。やはり防災の教育というのは必要だということですね。
  その後、そういうような防災教育の重要性というのはあったんですが、気仙沼市では、2003年以降から防災教育って入っていった。

 それから、このような防災のワークショップ、防災教育の中で、子供たちが自ら色々な活動をします。自分たちで、こういうところを勉強したい、津波体験館を訪れたいということで、色々やる。 
 幼稚園でも防災教育が始まっているところがありました。この園児たちはバスで通園するんですね。そのときに抜き打ち的な避難訓練をやっている幼稚園です。普段から津波の紙芝居とか、津波の怖さ、どうすればいいんだというのを教えていた幼稚園もある。

 これは中学校ですけれども、このような形で地震とか津波とかを自分たちで学ぶ。私たちが最初に入った学校は、モデル校的に入っていったんですが、ちょうどゆとりの教育の時でした。それで、今でいう総合学習という時間のほとんどを使ってもらいました。

 教育の分野というのは、「防災でこういうことをやりたい、だから協力して、じゃぁやりましょうか」と思ったとおりには、なかなかなりません。入った学校は、先ほどの海水浴場に近い学校だったものですから、私たちが強力にお願いしながら入りました。しかしながら、教育委員会は「そうですね。やりましょう」となるんですが、学校は学校長の権限というのが結構強いんですね。そのために、私たちの学校はカリキュラムが決まっているからという話になると、なかなか入れない。それで、モデル校をつくりながら入って、多くの学校に入っていましたが、3.11のときは全ての学校というような状態ではありませんでした。
 防災マップを作ったりして、自分たちのものとして学校自体が動き始めていた小学校とか中学校もあります。こういうようなものをやってきました。訓練ですね。このときは大人も入った訓練になっています。

 子供たちというのは、中学生も含めて、私たちが始めたころは、災害の弱者的な立場だろうというふうに思っていたんですが、中学生2年生、3年生になると、助ける側なんですね。ということで、実際、震災が起きて避難所生活をする場面で、中学生が避難所の運営に携わって、食事の世話とか、いろんな方のお世話をした、支援したというようなことがありましたし、その後も防災訓練をやっておりますが、その中でも子供たちが中心でやっています。そうしますと、逆にその地域の大人たちが、子供たちがこんなにやっているのに我々やらないわけにはいかないだろうということで、子供と一緒にやろうというような地区が出てきております。

 これは階上中学校というところです。ここは非常に熱心にやられておりました。私たちも非常に力を入れた学校であります。避難所運営だって、自分たちで自助・共助・公助という部分で勉強しながら、進めてきました。

 それから、これは学校ではありませんが、防災運動会というのは、震災のちょうど半年前に始めたばかりでした。地区民運動会というのが地域であります。小学校区単位でやるんですが、市街地の学校は人が集まらなくなって、運動会を開けなくなってきたんですね。で、公民館から話がありまして、人が集まらないので防災運動会ということに変えながらやっていきたいんだけど、防災担当者は協力しろということで喜んで協力させてもらったというのが、ちょうど震災の半年前の秋口です。秋に2カ所の学校区でこういう運動会をやりました。当日は雨だったので体育館でやっていますけれども、こういうふうにして始めたばかりでした。これを広げていきましょうねということだったんですが、この半年後に3.11が起きてしまいました。

 それから、住民がワークショップの中で自分たちで考える。じゃあ安全に避難する場所ということで、自分たちで避難する場所を決める。企業のビルを避難場所に使わせてほしいということで、地域の人がお願いする。お願いした結果OKだったら、市の方できちっとそれを契約してくれというようにして、やった例です。ヤヨイ食品という鹿折地区にある食品会社ですけれども、24時間稼働しているものですから、夜でも何でも避難できる場所です。これは3階の食堂なんですが、工場ですから3階というのは普通の建物の5階に相当する高さになります。それに、法で定められた企業としての訓練があり、そのときに地域の人も一緒に参加する。それから、従業員の人たちは地域の人たちを避難誘導する、というような内容の訓練を行ってきておりました。企業と地域が一緒になった訓練ですね。

 さらに、要援護者対策についてもやってまいりました。要援護者支援という、これは完成までいかなかった。実は、台帳をつくろうとしたときに、個人情報保護法が出始めたときでした。それで、保護法がネックになって、使えませんでした。データをもらえない、出せない。
 しかし、そのままでいい訳はないということで、きっかけとなりましたのは、障害を持った要援護者の方々です。精神障害の人とか、体の障害を持った方の団体があります。その方々から、ワークショップのときに、「私たちは、いざというとき、自分たちではどうしようもないんだ。だから助けてほしい。情報は全部出すから何とかしてくれ」という話があって、民生部局の情報を待つということなく、防災部局が独自に手挙げ方式で台帳をつくってまいりました。その後、防災に関しては民生部局等からデータを出せるということになったんですが、実際は渡されませんでした。起きたときは渡しますというんですが、それでは間に合わないんですね。
 それが欲しいということで、震災の2年前に情報保護の審査会にかけまして、きちっとした形で出してもらえることになったんですが、実際、震災時までには出てきていません。今後は、そういうものはきちっと震災前から出して、住民の方に、地域の人たちに対しても知らしめて、いざというときの支援という形で活用しなければならないというふうに思っております。これも反省です。

 それから、情報を収集するための津波計というようなものも、もう25〜26年経ちますか、独自につくって設置しました。当初は、予算がないということもあって、職員の手作りでした。職員というか、私もハンダづけしながら作りました。
 それが出発で、うまく動くねということで、市から予算をつけてもらってこういうものになったんですが、震災時には実は使えませんでした。データが、有線なんですけれども、光ファイバー網が地震とともにダウンしました。ということで、使えませんでした。この目的は、実は湾の入り口から湾の奥まで14〜15分の津波到達差があります。その到達差をもって湾の奥の人を逃がすというのが1つと、それから、地域防災計画において防災担当者は海面を監視しなさいというのがあるんですね。今はあまり書いてないんですけれども、昔は書いていたんですね。どこの市町村でも、津波だというと、海を計りに行きました。
 これは大変危ない話で、こうやって箱尺(スタッフ)を持ってはかるんですね。ある時、津波注意報か津波警報が出まして、行きました。次の日の新聞に「ほんとうに来たらどうするんだ、こんなことやっていいのか」と載りまして、監視する人の安全を確保するために、次の日からこのシステムをつくり始めたんです。

 もう1つは、当時、津波の観測データというのはあまりなかったものですから、きちっとした津波のデータをとって研究機関や専門家のところで研究に役立ててもらおうということでつくったものでした。
しかしながら、湾の入り口での観測からの湾奥の人の避難ということは、湾の入り口の人たちが犠牲になるという面もあったんですね。ですから、もっと沖合で計れればありがたいというか、早く逃げられる、確実に逃げられるというようなものを求めておりました。その結果、沖合の波浪計ができ上がったわけですけれども、これを国交省の方にずっとお願いしてまいりまして、作っていただきました。これも実は震災時には使えませんでした。これもやはり光ファイバーの断線等により、データが我々は入手できなかったというのがあります。

 震災前にでき上がっていたものは、津波防災支援システムという名前のリアルタイムハザードマップでした。沖合で観測した水位変動から、到達前に、どこまで浸水する、どのくらいの速さだ、到達時間は、というものが出される仕組みでした。ですから、私たちは地震直後これにアクセスしようとしたんですが、アクセスできずデータが入らなかった。このデータがもし見られていれば、気仙沼沖合にもありますから、経験値として頭にありましたのは、得られたデータ、気仙沼沖合の高さの4倍から5倍がおそらく気仙沼の遡上高を入れた最大値になるだろうと思っていました。後から見ますと、気仙沼沖合で5.7mですから、約24〜30mくらいの高さになるんですね。気仙沼市で一番高いところは27.1mの遡上高で、津波高としては23.何mという高さになっております。大体いい値なんですね。もしこれがわかっていれば、おそらく情報の流し方も違っていただろうなと思っております。

 このシステムの必要性というのは、実は一番最初にお話ししました明治三陸津波なんです。明治三陸津波というような、ぬるぬる地震、津波地震というタイプの、地震の揺れは小さいが津波は大きいということが起きますと、今でもきちっとしたものは捉えられない可能性がある。場合によっては警報が出ない可能性もあります。その場合、実際の海面変動から予報を出す仕組みがやっぱり必要なんだということで、気仙沼市では20年以上前からその要望を国にしてきておりました。やっと動き出すというときに、3.11がやってきてしまったということです。

 実際の震災でありますけれども、マグニチュード9というような値になります。宮城県沖で始まります。そこから次々に断層がずれ始めるということですが、震災前に想定されておりましたのは、北海道から関東までの間、8つのユニットの地震の断層ということで想定されておりました。そのうち、3.11では6つのユニットが動きました。今まで全く想定されていないため、私たちも頭に置かなかった。ですから、津波についても、いろんな断層がずれたために、いろんな形の津波が混じっております。慶長はどういう形かわかりませんが、私たちの頭にあったのは、1つの波形の、1つの断層によって起きる津波です。しかしながら、いろんな断層のずれによっていろんな津波が起きて、それが混じっているという形なものですから、湾の形状によって、湾が持っている周期というのがありますが、固有振動周期にかかわらず、太平洋岸のほとんどの湾が被災を受けた。湾の形状によってはある津波に対しては非常に強い湾だというのもあったんですが、そうではなくて、全て被害を受けたということになります。
 実際、地震の揺れによる家屋の被害等は想定されていた住宅1棟だけでした。それは人が住んでいない住宅だったんですが、宮城県沖の第三次地震被害想定の中でも気仙沼市は1棟という想定だったんですが、まさに1棟だけが倒れてしまったという状況でした。

 これは震災直後の危機管理課の部屋の様子です。地震とともに電源が切れて全く使えない、情報も制限されるという状況でした。電源の複層化、情報ラインの複層化・多重化というのは、やっぱり必要なんですね。
 これは大津波警報が出された直後なんですが、まさか市役所まで津波が来るとは思ってないですから、まだ余裕があるというような、住民の方、市役所の職員。市の庁舎は3つに分かれています。これは一番高い場所の庁舎で、木造でおよそ100年くらい経つ庁舎です。昔の小学校。この下に本庁舎があって、RC構造ですけれども、非常に危ない、耐震的にはアウトの施設です。震災直後から、建物の中に入れませんでした。余震で倒れるかもしれない。そのもう一段下に、私たちの先ほどの庁舎がありました。その1階は、津波で1m80cmくらい浸水しました。そこに津波が来て初めて、これは我々の想定と違うというのがわかるわけです。
 これは、震災直後、ホワイトボードにいろんな書き込みをしながら、デジタルカメラで撮りながら記録を残していくということしかできなかったわけですけれども、入ってくる情報も非常に少ない。私たちはどういう状況にあるか、災対本部ではほとんどわからないという状況でした。

 地震発生は、3月11日の14時46分でありました。震度6弱ということで、3分くらい揺れました。ちょうど市議会の開会中で、私も議会のほうに出ておりまして、その場にいた人は全部机の下に潜らせたんですが、実際は、一番危ないところにいましたから、ひょっとするとこの建物はつぶれるかもしれないという思いで、机の下に入ってもだめだろうなというのが正直な想いでしたが、一応、机の下に入ってもらいました。私は、急いで執務室に戻らなくちゃならないということで、戻るタイミングを探していたんですけど、なかなか揺れがおさまらない。2分間ぐらいは非常に強いんですが、1分30秒か40秒くらいに何とか執務室に向けて走り出しました。戻って一番最初にやったのは、地震の情報、津波の海面変動など、とにかく情報を入れろということでした。
 それから、あわせて一緒にやったのが、自衛隊への派遣要請でした。すぐ行いました。それは、前々から自衛隊と想定を大体一緒にしていました。イメージはこうなります、孤立化しますということがありましたので、すぐ連絡を入れて、同時に県にもということで行いました。自衛隊は15時17分に今から出発しますという連絡をよこしますが、実は、出発準備をしているときに、多賀城というところなんですが、そこも津波に襲われて、出発車両も被災するという状況でした。しかしながら、21時半ぐらいには気仙沼に入ってもらいました。

 情報伝達ツールとして多重化すべきということだったんですが、防災関係の予算って非常に少なかったんですね。ほとんどつかない。補助メニューがないということで、単費で何とかやらざるを得ない。ツールは防災行政無線とエリアメールとホームページとツイッター、使えましたのは、防災行政無線、バッテリーのある間だけです。それからツイッターも、NTTだったり、携帯電話の基地局のバッテリーがある間です。防災行政無線は13日の夜まで何とかもたせました。今、全国の防災行政無線は、1時間に5分間くらいずつ使用しますと、24時間くらいでバッテリーが切れてしまうという状況です。この後はソーラーのパネルをつけながらということをやっておりますけれども、そういうふうな電源も多重化するとか、というものはやっぱり必要だということであります。
 それから、ツイッターについても途中で切れるわけですけど、これもやっぱり携帯電話の基地局もバッテリーを持っている。それから、自家発は持っているんですが、油がないとか、油が運べないという問題がある。そのためにこれも、3月11日の21時半くらいで、たしか切れたと思います。ということで、モバイルのパソコンでは情報が収集できない、どこからも入らないという状況があったものですから、また、必要とした海面の観測情報とかも入らないことから、ツイッターにより入った情報を流しましょうということに切りかえたということであります。
 それから、これは一部でありますが、市場屋上から撮った映像です。

============== 映像内音声 =============
がなり引いたね。
うちが流された。
うわっ、すごい。
来た、来た、来た。
=======================================

ここでもまだ余裕があります。この船は、後で流されてしまいます。
防災警報が出ております。

============== 映像内音声 =============
マグロ船が出ていった。
あっ、家が流された。あっ、あっちが入っている。
=======================================

 これは引きに転じるんですけれども、2〜3日、海水は引きませんでした。といいますのは、いろんな周期の津波が入るし、入る場所も違うために。普通ですと、我々考えたのは、ある時間帯の後、引くだろうと思っていました。ところが、瓦れきもあり、水が引かない状態が続きます。そのために、一時避難ビルでありながら、最低3日くらいはその場所を動けなかったというのがあります。
 これは市場の背後なんですけれども、市場の屋上から本部のほうに連絡が入ります。防災行政無線の移動系ですけれども、水産課の職員から連絡が入っています。それは、「前は火の海である。後ろにも火が迫っている。助けに来てほしい」という話です。私たちの答えは、助けに行けないという答えしかありません。何とか屋上から逃げてほしいという話をするしかないんですね。非常につらいものがありました。

 これは、地震から5分後、高台へ避難する人たちですね。逃げるのが遅いという話もあったんですが、これは調査していただいている気仙沼小・中学校へ上がる河原田というところなんですが、そこを上がっている人たちです。急いで、走って逃げています。車は、逆に海岸部へ向かう車なんですね。左側に映っているこの車ですね。この人たちは高台に逃げる。ヘルメットをかぶりながらという人たちもおりました。
 これは市場の横で、渋滞しております。ここの交差点は、逃げる車、こちらから高台に上がろうとする車が一緒になって、渋滞を起こしているという状況です。

 これは鹿折地区という市場の対岸のほうですけれども、津波が2mと書かれていますが、もっと下がっております。
 これは先ほどの映像と同じですね。工事をしていました市場の南側ですが、ここをちょっと掘削し、桟橋を直していたんですが、それが全て流されてしまって、逆に地盤も削られて海になっている。
 それから、この場所は対岸まで200mくらいしかありませんが、ここは、一番深いところが震災前でマイナス9.7mくらいでした。9.7mだったのが震災後はマイナス17〜18mメートルということで、非常に深く掘られています。水が真っ黒なんですけれども、ヘドロとか土砂が巻き上げられた状況です。

 津波というのは、太平洋にある部分は海水ですが、内湾に入ってきますと、土砂が上げられて、海水重量が重くなります。それから、陸に上がりますと、瓦れきを巻き込みますから、土石流とまではいきませんが、それに近いような水の重さになるということになります。そうしますと、今いろんな指針が出され、波圧はということがいろいろ出されておりますけれども、私は、津波の力は場所によって違うんだろうと思っております。

 濁流によって、木造家屋は簡単に流されてしまっております。
 オイルタンクですね。
 これがあちこちぶつかって、漂流物が物を壊すという状況。
 これは、切断された電線からの火災ということなんですが、このときはもうほとんど電気は通じてないはずから、ちょっとよくわかりません。未確認ですね。ただ、火災は発生している。こちらでも火が出ていますので、何らかの形で火が出たと。
 これは、湾内の直後の状況ですね。
 これは湾内の火災の様子です。これがどんどん広がっていきます。
 これも同じですね。これは市場の裏側のほうです。
 これは、市場の屋上から見た、まさにこういう状況で、災対本部のほうに助けを求める連絡が入るわけですね。
 これは、海の方になりますけれども、海面はこういう火災の状況でした。この背後にも火が迫るという状況です。
 これは私たちの建物から見ているんですが、大変な火災だというのはわかるんですが、どういう状況か、はっきりは、わかりません。
 これは鹿折の火災です。
 これは翌日の午後なんですが、こちらのほうでまだ燃えております。日中なので火は見えませんが、漂流物化した火災があちこちに火をつけています。これは離島の大島です。大島にも火災がうつるという状況で、これが、大島の山、亀山の背後の部分を燃やし、亀山の表側にも火災が迫る。地震が日中でしたから、若い人たちはこちら(本土)に働きに来ています。ここには、日中には中人はあんまりいないんですね、。高齢者と子供と、それから消防の出張所がありますけれども、人数は少ないです。いる人たちが総出で山に上がって火災を消すという状況でした。
 これは気仙沼の鹿折地区です。実は、津波で家屋が流され、一時避難的に逃げていた人もこういうところにおりました。それが漂流物化した船舶によって倒されてしまいます。あるビルでは、20〜30人逃げていたという話があります。こちらに避難ビルがありましたが、そこで見ていた人たちが、「みんな逃げたね。津波大丈夫だった」。でも、その後やってきたこの船に倒されてしまいます。
 それから、この地区では残った家屋があったんですが、火災でほとんど焼失してしまうという状況でした。

 それから、寒さが大変だったんですね。この日は非常に寒かったんです。そのために、水に濡れた人たちが屋根に上って助けを求めた。しかしながら、翌日には多くの方々が亡くなってしまうという状況でした。
 実は、こういう状況なんですね。これは、水が引いてしばらくたった2日目か3日目くらいの状況です。こういう瓦れきがあったために、助けにも行けないんですね。これを越えていかなくちゃならないんです。車両は、この道路を啓開して、瓦れきを片づけながら、無理なところを入っていかなければならないという状況でした。

 先ほどの津波の高さは想定以上とあるんですが、ここ(波路上地区)に私たちは、地元の人と話し合いしながら、それからシミュレーションも見ながら避難高台を指定しました。実はこの高台に60名の方が津波時に避難していました。助かったのは6名だけです。安心して逃げていた高台で、多くの人が亡くなってしまいました。こちらの高台は助かっています。高さ的にはほぼ同じですが、ここは12〜13mありました。想定の津波の高さは8m。しかしながら、ここを襲った津波は17mでした。実は、この高台の先は低くなるんですね。それから、こちらに明治のときに集団移転した集落があります。今回はここも津波に襲われているという状況でした。

 これは一時避難ビルの県立の旧水産高校ですけれども、49名の人たちがこの屋上にいました。ほとんどの子供たちはここから逃げたんですね。走って逃げました。ここにいた人たちは、津波はこの建物以上に高かったという話をしていました。しかしながら、運よくこの建物の前で分かれてくれた。低いところがぶつかってくれた。そのために私たちは助かりましたという話がありました。4階まで津波が来ています。
 私たち、津波の一時避難ビルというのは、3階くらいの高さでRCであればいいというような考え方をしていたんです。一時的に、6時間から8時間そこにいればいいという考え方もしていました。しかしながら、今回被災した場所を見ていきますと、運がよかっただけという思いをしています。このとき、津波は干潮のときに来ています。満潮のときにやって来れば、もっと高いです。そうしますと、場所によっては被災した避難ビルもあると思います。
 それから、次々やってくる被害、拡大する被害に対してですね。津波、漂流物、火災というものに対して、その避難ビルが全てを満足するのか。点の避難ビルということを考えていましたが、点であっていいのか。そこから次に移動できるような、線というような考え方も、避難ビルは考えるべきじゃないかなと思っております。

 これは6月7日現在の気仙沼市の死者数ですが、1,041名。うち、身元不明者が10名くらいおります。行方不明者は239名。合わせまして1,280名というような被災者数であります。

 この防災マップの青い線、それから数字は、今回の防災マップに書き込んだ津波の浸水域です。湾の奥では12mほどの高さになっている箇所もあります。防災マップ、ハザードマップ、色を塗っていないから安心だとのマップではないというのをもう一度、私たちはゼロから話をし直さなければならないだろうというふうに思っていますし、そういう考え方が必要なんだと思っています。

 気仙沼の被害の特徴は、事業所の被災が非常に高いということです。約81%の事業所が失われました。従業員数の84%の人が職を失ったということです。町の産業復興という形で今取り組んでおりますが、ゼロからの作り直しというような状況です。
 漁船数も、登録漁船数3,500隻ほどあったものが、3,000隻ほどが損壊しているという状況です。

 それから、地盤沈降ですね。これは我々が全く想定していなかったものであります。国土地理院から公表された沈降量は65〜74cmとなっています。。私たちの調査ですと、1m10cmを超える場所もあります。そのために、埋立地がほとんど被災地になっていますが、海の利用面からつくったところ(埋立地)が下がったために、満潮になりますとまた海になってしまう状況で、道路のかさ上げから始まらないと瓦れきの片づけもできないという状況がしばらく続きました。

 それから、避難所生活。避難所では、5カ月過ぎても900人が生活しておりました。その年の大みそかまで避難所生活が続きました。急いで仮設とか色々なものを作っていきましたけれども、避難所生活はこの写真のような状況でした。

 これは防災センターで、先ほど理事長さんにお話を聞きましたら、この設置のときにご尽力いただいたということで、ほんとうに感謝しております。この消防本部がある防災センター、このときに並んでおりますのは、実は被災者でありません。これは、被災しない、うちは大丈夫だった人たちが並んでいます。食べ物が町にないんですね。手に入りにくいということで、そういう人たちも並んでおります。これは食べ物の配給に2時間待ちの行列。一時期、気仙沼市民全員、食べ物がないという状況が続きます。水がないというような状況が続きまして、市民全員が被災者だというような取り扱いをした時期もございます。

 これは仮設住宅ですね。学校の校庭、中学校13校のうち11校の校庭が仮設住宅になっています。子供たちは運動ができない状況が続いていて、近くに小学校がある場合は小学校を使わせてもらっているというような状況です。

 それから、被災者の生活支援ということで、こんなに支援項目があります。いっぱいあるんですが、窓口がみんなばらばらです。これは気仙沼市の例です。被災者生活再建支援金は私がいました危機管理課で対応していましたけれども、災害弔慰金とかは社会福祉事務所とか、一本化できない。例えば、被災者が来ます。こちらに来て、次にあっちの部屋に行ってくださいというと、こっちの担当に回されるような状況です。これは岩手県と宮城県で大分違っています。
 宮城県の場合は、来たところから、向こうの部屋ですから、向こうに回ってくださいねという案内をしますが、岩手県のほうはそうではなくて、来ますと、最初に受け付けした人が次に案内します。最後まで案内します。そうしますと、最初に行ったところは、どの課でもいいんですが、そこでは、最後まで行きますから、ほかのやっている仕事まで頭に入るんですね。誰に聞いても生活再建支援関係がよくわかるという状況をつくっています。岩手県の市町村はこのような形でやられているというのを聞いています。今後は被災者支援カルテというものを作りながら、どこに行っても同じような、情報共有しながらやれるような体制というものが必要だと思います。被災者カルテというのは震災後つくり始めて今やっと完成するところですけれども、事前にこういうようなものが必要であると思います。

 復旧・復興活動、これは震災直後にやりました、港が使えるかという測量をしたようなことがありますし、今、河川管理への影響が出ています。全部地盤が下がってしまった。そのため、海面の影響を気仙沼の河川のほとんどが受けます。汽水域で干潮・満潮の影響を受けるわけで、満潮時に大雨が降りますと簡単に洪水になってしまうという状況です。ですから、洪水警報がしょっちゅう出るという状況です。これからのシーズンはどんどん増えるのかなというふうに思っていますけれども、今まさに気仙沼市が防災として一番やらなければならないのは、恐らく大雨・洪水対策の対策かなというふうに感じております。

 それから、復興の場面ということになりますが、気仙沼市は「津波死ゼロのまちづくり」というのを標榜しております。ただし、「海と生きる」ということも1つ入れているんですね。震災直後、いろんなことがあって、時間がたってしまったために、人々の思いは、住民の思いは、いろんな考えを持っています。そのために、津波死ゼロということは、例えば、防潮堤とか、ハードの部分で財産を守る、ここまでは必要だというレベル1をやろうとしたときに、いや、うちの地区は要らないよという人も随分出てきています。そのため、整備がはかどらない。同じ方向に意見がまとまらないという状況がある。
 今後の対策としてということになるんですが、これからそういう災害が考えられるという地区においては、場合によっては同じ方向を持つ復興計画というのが必要だ。そうしますと、事前復興計画なんていうのも、場合によっては、地区によっては、そういう考え方を持って作っておく。ある程度、6〜7割の住民の意向を大体作っておくことによって復興の速度を速くする。そういう考え方も必要ではないだろうかというふうに思っています。

 復興の進め方の細い点ですが、産業連関表による効果的な整備支援というのは、やっぱり必要なんだと思うんですけれども、これが実は、気仙沼市でそういえばやっていたなというようなことで、産業連関表をうまく使ってない。こういうものを作っていれば、ほんとうは効果的な予算の投入の仕方というのが出てくるわけです。それから、既存の復旧方法だけではやはり、今後大きな災害が起き得るところはまずいと思います。緊急事態宣言をしながら、災害復旧・復興というのは、超巨大な災害になればなるほど、復旧と復興が一緒でなければならないんです。今までの災害ですと、復旧があって、復興というのが別にできたんですけれども、同時というようなものがまさにこの東北地方の災害だと思います。ですから、復旧・復興というものを頭に置いた新たな法整備というものもやはり必要なのかなというふうに思っております。

 これは、レベル1、レベル2ですね。それをポンチ絵にしたものですが、これがなかなか同じ方向にまとまらないということで、今、ちょっとネックになっております。
 それから、地震後、あまりにもひずみが大きいために、アウターライズの地震の発生が懸念される。プレート内地震ですね、境界ではなくて。ということで、今考えられておりますアウターライズが起きた場合、浸水域はどうなるんだろうというようなシミュレーションも、震災直後に行っております。これによって、ここにいろんな復興のために入っている人の、作業している人たちの命を守るというものも必要だろうというようなことですね。

 それから、情報伝達システムについても、1人の操作で全のツールを動かせるシステムの実証実験を完了しました。これがおそらく普及してくるんだと思います。今、先ほど言いました情報伝達手段にプラスしまして、震災後行った、被災者支援メールとか、デジタルサイネージ(電子掲示板)とか、そういうものを一元化しながらというようなことで、今、行っているところであります。
 これも、先ほどちょっとお話ししましたけれども、津波計についても、オンサイトということで陸上につくった、市の持っている津波計ですけれども、ソーラーをつけ、それから通信も光ファイバーとあわせて衛星系の通信系も入れながら多重化した形で復旧しております。
 それから、フィールドミュージアムということで、今後の防災教育の部分でみんなに覚えてもらう。それも、観光客も市民も参加できるような形でのシステムを今作っているところです。大体、ほぼ完成という形になっております。
 それから、震災遺構がありますが、これは係留していたところから800mほど内陸部に入って残っているんですけれども、これはどうやら取り壊しという方向が濃厚であります。非常に残念ではあるんですが、この地区の人たちは、この船はそのときを思い出してしまう、何とかとってくれという意見が非常に強い。それを受けた船主さんの意向ということで、取り壊しの方向にあります。

 震災の教訓というのはいろいろありますけれども、津波は、それぞれの人が命を守るということが必要で、逃げた結果、多くの人の命が救われるということにつながる。
「津波てんでんこ」というのは岩手県でよく使っていたということですが、いろいろ調べましたら、結構新しい言葉なんですね。昔からではないようです。しかしながら、「津波てんでんこ」、これはきちっと伝えていかなくちゃならない。というのは、気仙沼市の場合は、家族を助けに戻って亡くなった人、それから、共助ということで、ほかの人を助けにいって亡くなった人というのが多いようです。それは、それぞれがどこどこに逃げた結果、多くの人が助かるという形を目指していかなくちゃならないというのと、やっぱり災害の正しいイメージ化ということが必要なんだろうというふうに思っています。
 経験も大切です。しかしながら、正しい知識と一緒になった防災の知恵というものを住民と一緒に作っていかなければならない。それぞれの人たちが災害対策というものをつくっていくということが必要であると思います。

 時間が大分オーバーしてきて申しわけないんですけれども、次の震災に備えてということで書いたものです。予防対策、先ほどの行政の準備ということの部分なんですが、赤書きした部分になりますけれども、正しく恐れる部分が住民と行政にも必要だと思います。記憶をつなぐ。震災遺構として残すものであったり、フィールドミュージアムであったり。
 それから、式年遷宮的ということで、例えば伊勢神宮が定期的にいろんな形で儀式として技術を伝える意味合いだったり、改めてその意識というような、神社に対する意識を啓発していくというんですか、継続するためということがありますけれども、こういう災害についてもそういうような考え方で、イベントじゃないですけれども、定期的にそれを思い起こされる、忘れないようにというようなものがやっぱり必要なんだと思っております。
 また、訓練と書きましたけれども、役所の内部の温度差をなくすためには、ロールプレーイングという形でかなりきつくやっていく。これによって、自分の責任だと感じられるような形のロールプレーイングというのも1つだと思います。
 それからもう1つ、これは、市町村によって、できる、できないってありますし、それから首長の意識によって違うと思うんですが、高知県の黒潮町さんは職員の地域担当制ということで防災を全職員が扱うということをやっています。これによって災害の部署による温度差をなくすということをやっていますし、効果的な部分を狙ったということをやっているんですが、ああいう形が必要なんだと思います。

 安全場所の確保と避難困難地域の抽出ということで、避難シミュレーション。まさにこちらでやっていただいている、避難検討委員会でやられていることなんですが、避難困難地域ということの設定をし、その中でどうすればいいんだというものをきちっと押さえなさいというのが、先月6月に国のほうから出されました。地域防災計画の中にそれを位置付けしろということが出てくるわけですけれども、まさに、じゃあ避難困難地域とは何ぞやという部分をやっていただいているのが、こちらのお仕事になります。ですから、これは非常に重要で、それによって、逃げられる、逃げられない。じゃあ逃げられない場合どうするんだという、次にどういうものをやったらいいのかというのが出てくると思います。それは、避難道路だったり、避難路だったり、一時避難ビルだったり、避難拠点となるビルだったりということになろうかと思います。

 応急対応、復旧・復興で、超広域災害時の立法化というものがやっぱり必要です。
 それから、情報、電源もそうですけれども、いろんな部分の必要な多重化にも気仙沼市では取り組んでいるところです。
 もう1つ、これは国に対するということになると思いますが、いろんなハード施設を整備した。しかし、お金の問題がある場合に、定量的に評価すると、それはやっぱりやるべきなのか、いや、これは1ランク落とすべきなのかということで、これは大分昔にやった防災対策の定量的評価ということで作ったものですけれども、津波のシミュレーションとか何かによって色々なものが出る。その場合、それを防ぐためのいろんな施設を整備する。そうしたときに、その発生に対しての確率を入れてやって、期待被害曲線というものをまずつくってみた。それに合わせて整備をしたことによっての便益というものを1つ出して、こういうものも考え方として、何ていうんでしょうか、理論武装と言ったらおかしいんでしょうか、だから必要なんだというものを認めていただくための定量的評価というようなものも、やっぱり必要なんじゃないかというふうに考えております。

 津波の発生確率はこういうふうなものがあり、被害曲線というようなものがあり、これは人の命もカウントしたりということをやっています。もちろん、工場とか、いろんな財産もカウントしています。それで期待被害曲線を発生確率とあわせてやる。その結果、この費用便益というものが出てくる。それを整備するための判断として使うというような、こういうような考え方も必要なんじゃないか。この場合は、気仙沼湾で例えば湾口防波堤を作ったりというようなことによって、さてどう変わるんだというものを実際カウントしてやってみたということがあります。

 それからもう一つ、最後に戻りますが、これは、先ほどちょっとお話しした、湾の入り口に近い、階上中学校です。これはNHKの映像です。

============== 映像内音声 =============
【ナレーター】避難所となっている体育館の一画で、卒業式が行われました。この中学校では、ことし卒業する生徒1人が亡くなり、2人の行方がわかっていません。行方がわからない我が子の写真を手に、式に臨む父親の姿もありました。
【校長】卒業証書、畠山郁也。
非常に悲しい出来事が突然、私たちを襲いました。災害は必ず来るとの思いから備えてはいたものの、想像を絶する、想像をはるかに超えた、大きな災害に私たちは直面しています。大きな悲しみを抱えましたが、この悲しみを乗り越えなければなりません。
【梶原裕太】階上中学校といえば「防災教育」と言われ、内外から高く評価され、十分な訓練もしていた私たちでした。しかし、自然の猛威の前には人間の力はあまりにも無力で、私たちから大切なものを容赦なく奪っていきました。天が与えた試練と言うには、むご過ぎるものでした。つらくて、悔しくてたまりません。しかし、苦境にあっても、「天を恨まず」、運命に耐え、助け合って生きていくことが、これからの私たちの使命です。
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 今の中学校、私たちは一番力を入れてやったつもりですし、学校自体もすごく力を入れて防災教育をやってくれました。私たちとすれば、この地域で、気仙沼市においてもいろんな課題を抱えました。あれもやっておけばよかった、これは足らなかった、いっぱいあります。そういうものをセンターのほうで検証していただいている部分があります。この課題を、次の災害といいますか、今想定される災害にぜひ生かしていかなければならないと思います。

 いろいろお話しさせていただきましたけれども、私たちは課題をいっぱい抱えました、ああいうこともやってきた、こういうこともやった、しかしながら、1,280名の方が命を失っているということも事実です。こういうことがないようにというんでしょうか、ぜひ我々が抱えた課題を生かしていただきたいというふうにお願いして、今日の話を終わらせていただきたいと思います。
 どうもありがとうございました。


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